太宰とギャグ漫画

id:sarutora:20041215#p1で『かってに改蔵』が取り上げられていたので、前から気になっていたことを書く。江口寿史吾妻ひでお久米田康治。この3人の共通点は何だろうか。有能なギャグ漫画家であり、有能すぎるあまり精神的に(一時的に)破綻してしまったこと。それだけではない。みな、太宰治を愛読しているのだ。読書家として知られている漫画家は多いが、ギャグ漫画と太宰治の結びつきは極端に強いように思われる。

ギャグ漫画とコメディ漫画の違いのひとつとして、作者が作中に顔を出すかどうかが挙げられるだろう*1。作者が登場人物と一緒になってドタバタを演じる手法は古くからあるが、江口、吾妻、久米田はいずれもこの手法を愛用しており、ギャグを効果的に盛り上げている。逆に『のだめカンタービレ』のような「コメディ漫画」に作者本人が顔を出したら、雰囲気はぶち壊しになるはずだ。コメディ漫画はストーリー性を重視しており、ストーリーに沿いながら「笑い」を盛り込む。これに対してギャグ漫画では、「笑い」がストーリーよりも優先される。ギャグが面白ければストーリーが破綻していてもかまわないし、ストーリーが破綻していることが新しい笑いを生む。

太宰治の小説には「私」が登場するものが数多くある。しかしこれらの作品には「私小説」とは言い難いものが少なくない。たとえば「女の決闘」は、いままさに「女の決闘」を執筆中である「私」が登場するが、ひたすら狂言回しに徹しており、メインのストーリーとかかわることはない。「トカトントン」は最後の最後になって「この奇異なる手紙を受け取った某作家」が登場するが、これはどう考えても蛇足である。

もちろん狂言回しや蛇足ではなく、ストレートに「私」を主人公にした作品もある。しかしこうした作品でも、太宰は「ありのままの自分」をそのまま描いているようには見えない。太宰が長身痩躯の美男子で裕福な家庭で育ったことはいまでは誰でも知っているが、「私」はつねに必要以上に不細工で貧乏じみた男性として描かれている。根っからのナルシストだからこそ、「ありのままの自分」をそのままさらけ出すのが「芸」にならないのを理解していたのだろう。これはネットの個人サイトにも言えることだが、自分自身をほどよく滑稽に、みっともなく描くことができないと、退屈な「自分語り」に陥ってしまう。

と、前置きばかりが長くなってしまったが、「私」をありのままに描くのではなく、適度な距離感を持って戯画的に描くところが太宰治とギャグ漫画の共通点で、だからこそギャグ漫画家は太宰にシンパシーを覚えるのではないか。

*1:ちなみにギャグ漫画とコメディ漫画を区別するのはオレの独創ではなく、とり・みきがむかしエッセイで書いていたことだ。