懐かしさ

レコミュニに関するはてなダイアリーをいくつか読んで、ソーシャルネットワークという仕組みそのものに疑問を感じているひとが多いことを知る。しかしオレは、ソーシャルネットワークにある種の「懐かしさ」や「古さ」を感じてしまうのだ。

オレがインターネットを利用するようになった当初は、2ちゃんねるはおろかTeaCup掲示板さえなく、ネットで議論しようとしたら、メーリングリスト(ML)に入るのが一般的だった。MLは当然ながら、参加しなけば発言も閲覧もできない*1。また存在が非公式になっているMLや、自動登録できないML、何らかの自己紹介が義務付けられているMLも少なくなかった。参加者が少ないML、ウェブでは存在をオープンにしていないMLのほうが、活発で有意義な議論が展開されていた、と断言してもいい。どのMLもアクティブな参加者が一定の人数を超えると、いきなり「死んで」しまうのだ。これは一般社会にも言えることで、会議は参加者が多いほど「言いっ放し」になりがちで、意見がまとまりにくくなる。ブログのコメント欄や匿名掲示板の「煽り」には、スポーツ的な快感はあっても、生産性は乏しい(幸いにもオレのコメント欄は、まともな発言ばかりなのだが)。誰が参加しているのか、参加しているのはどんな素性のひとなのかがきちんと判るmixiのコメント欄やコミュニティーは、MLに勢いがあったころの雰囲気を思い出させる。参加するための条件をあえて厳しくした(というか、厳しくせざるをえなかったのだ。その理由をブログで書けないぐらいに)ために、有意義に機能しているコミュニティーもある。

「インターネット上の情報は、万人に公開されなければならない」という考えかたは、あまりにも新しく、あまりにも強迫的*2だと思うのだが、どうだろう。はてなダイアリーにも、きちんとプライベートモードがあるのだから。

*1:技術系のMLでは、ウェブで過去の発言が閲覧できる場合があるが。

*2:脅迫的、ではないよ。