たぶん細かいところで間違いがある

予告どおり、「対立モデル」と「合意モデル」について。かなり自己流にパラフレーズしたので、専門家から見ればツッコミどころ満載のテクストになりましたが、ご笑覧ください。括弧内の固有名詞は、それぞれの説を唱えている研究家の名前です。

「対立モデル」はレコード会社とミュージシャン、レコード会社とリスナー、メジャーなレコード会社とインディーのレコード会社を対立関係にあると捉える立場です。たとえば「高級なクラシック音楽ではなく、低俗なジャズを聴いている大衆は、資本家によって搾取されている」(アドルノ)、「ジョン・レノンボブ・ディランといえども音楽産業に呪縛され、口当たりのいい音楽を作るようになった」(ハーカー)、「黒人音楽やプエルトリカンの音楽は、彼らの自己表現の手段だったのに、白人が経営するレコード会社に取り込まれることで、本来の活力や居場所を失った」(チャプル&ガルファロなど、複数の研究家)といった意見が、その代表だと言えるでしょう。

対して「合意モデル」ではレコード会社、ミュージシャン、リスナーを対立関係にあるのではなく、「暗黙の協調者」であるとします(フリス)。ポップ・ミュージック(特にロック)は単なる消費物だが、ミュージシャンにとっては自己表現の手段であり、リスナーはそうした表現に魅力を感じる。そうである以上、レコード会社もミュージシャンの自己表現を重視せざるを得ないし、リスナーもレコード会社を「敵」ではなく、自分たちの価値観に合った優れた音楽を提供する仲間だと感じるようになる。要するにレコード会社とミュージシャンとリスナーを「敵対」ではなく、「持ちつ持たれつ」の関係から見ていこうという立場です。この「合意モデル」は、「ロックは反体制の音楽だ」派と「ロックは商業主義の産物だ」派のあいだで繰り広げられる不毛な議論を止揚するものだと個人的には思います(実際、ロックやダンスミュージックのファンの多くは、「対立モデル」よりは「合意モデル」にシンパシーを覚えるのではないでしょうか)。

そして生明俊雄氏は日本ではURCレコードの初期の活動を除けば、「対立モデル」に相当するものがなく、「対立モデル」と「合意モデル」を対比させる手法は有効ではないとしています。しかし沖縄の伝統音楽(および伝統音楽にもとづいたポップス)が本土で受容されるようになった過程に関しては、この手法は有効なのではないか? 実際にそのような立場にある研究家がいるのではないか? と思ったのでした。まあ、それほど沖縄音楽に詳しいわけではないのですが。