hatena communist party

いまさらのように斎藤環『社会的ひきこもり』(ISBN:4569603785)を読む。この本についてはしかるべき場でしかるべき議論がすでに展開されていると思うので、個人的に気になった点だけを書く。

斎藤氏はひきこもりが社会参加するきっかけとして「たまり場」が重要であると指摘し、「たまり場」が有効に機能するための条件をいくつか挙げている。

  • 専属のスタッフが数人以上かかわり、「場」の調整とメンバー同士の関係を積極的に調整すること
  • 「活性化」や「能力の向上」をじかにめざすのではなく、「親密さの醸成」を重視する
  • 問題行動の多い事例は参加を制限されるか、場合によっては除名されるような罰則規定を設け、場の心理的な安全保証感を高める
  • 「場」はきっかけであり、その外に関係性と活動性が広がる方向性を尊重する
  • オプションとして勉強会やクラブ内クラブ活動など、目的を絞り込んだ場を設定しておく
  • 活動の維持のためには有料であることを避けられないが、参加の妨げにならない程度の額に設定する

この辺は「はてなダイアリー」を連想させないだろうか(というか、「はてなダイアリー」を連想させる条件を、こちらが意図的に抜粋しているのだが)。もちろん「はてなダイアリー」と「ひきこもり」を関連付けることで、どちらか一方を貶めようとするつもりはまったくない。ただ「コミュニケーションが苦手だけど、コミュニケーションを欲しているひと」にはどのようなシステムが望ましいかを考える上で、この類似は興味深いのではないか。

あと「コミュニケーション」は決して「馴れ合い」ではなく、「積極的に意見や情報を交換すること」だ。斎藤氏も母親が息子に盲目的に愛情を注ぐことは「コミュニケーション」ではなく、かえってひきこもりを悪化させると繰り返し強調している。


私がコミュニケーションの回復をしきりに強調するのは、まさに家族の他者性の回復のためです。独り言がコミュニケーションではないように、あたかも自分の一部のような家族とのやりとりは、コミュニケーションからほど遠い。たとえ肉親であろうと、自律的な判断と行動の権利を持つ個人であるという認識があって、はじめてコミュニケーションの可能性が開かれるのです。(p.116)
コミュニケーションによって、ひとは世の中に「他者」(自分とは異なる価値観、異なる行動様式を持つひと)が存在することを自覚する。逆に言えばコミュニケーションによらなければ、自覚は難しい。こうした意味を包括した上で、はてなダイアリーはコミュニケーション・ツールとして優秀だと思うのであった。

要するに「はてなオフ会」はコミュニケーションを重視するひとたちのパーティー、すなわちCommunist Partyだったということでひとつ。