プロと自称

とあるユーザーのmixiのコメント欄が、「ネットには『自称評論家』や『自称ミュージシャン』が多すぎて鬱陶しい」という話題で盛り上がっている。オレも最初は「たしかに『自称』の連中は、レベルが低いわりには偉そうにしていて不愉快だ」と同意したのだが、考えてみれば中原中也萩原朔太郎だって、生前は「詩人を自称する生活無能力者」みたいに思われていたかもしれない(特に中原中也)。

ひとはいつ、「自称詩人」から「詩人」へとステップアップするのか。「プロ」として生活できるようになったら? それはおかしい。いま「詩人」として世に知られているひとでも、評論やエッセイといった詩以外の文章を書くことや、大学で教鞭をとることがおもな収入源である場合が多いからだ。「詩」だけで生活しているケースは稀だ。それ以前の問題として、「プロ」になるために詩を書くのは、目的と結果を取り違えていないだろうか。

ほかのジャンルはともかくとして、出版は「プロ」と「アマ」の境界が曖昧な業界だ。それなりにしっかりした文章が書け、出版社や編集プロダクションの編集者に知り合いの知り合いの知り合いがいれば、商業誌に自分の文章を発表する機会は意外と簡単にめぐってくる。それなのに「プロ」と「アマ」のあいだに「越えられない壁」があるかのように思い込み、「プロのくせに下品な日本語を使うな」や「さすがにプロだけあって、上手な文章を書く」*1と発言するひとは、出版業界に幻想を持ちすぎではないだろうか。

ともあれ「自称弁護士」や「自称大学教授」や「自称プロ野球選手」や「自称昭和天皇の遠戚」は明らかな詐称だが、「自称詩人」や「自称ミュージシャン」は大目に見ようというのが、現時点でのオレの意見。楽器を演奏する喜びを知っているひとは、単に「プロ」ではないというだけで、みな立派なミュージシャンである。「自称詩人」についても同様。

*1:オレならむしろ、「さすがに鈴木芳樹だけあって、上手な文章を書く」と誉められたい。