うまく書く

とあるひとから「『うまく書こう』という自意識が強ければ強いほど、ウェブ日記はつまらなくなる」という話を振られて、そうかもなあ、と思う。きちんと起承転結があり、推敲を繰り返したことがうかがわれるテクストより、生煮えのアイディアを「えいや」とばかりにドラフトのまま放り出したテクストのほうが、少なくともウェブでは魅力的に感じられる*1

逆にウェブで接したときには面白く読めたテクストが、活字になるとさほど楽しめないことが多いのは、活字メディア(とりわけ単行本)では「ドラフトっぽさ」がマイナスに作用するからだろう。あるいはウェブ上のテクストは、書き手が自覚している以上にほかのサイトや掲示板での議論を念頭に置いている場合が多く、活字にするにあたって「コンテクスト依存」的なくだりをどれだけ削除・推敲しても、その痕跡を消し去れないという事情もあるだろう。

と、特に書きたいテーマがないと、「ウェブとは何か」に関するメタな言及で日記が埋め尽くされるのは、いかにも不毛ではあるが。


 ゲエテにだって誓って言える。僕は、どんなにでも巧く書けます。一篇の構成あやまたず、適度の滑稽、読者の眼のうらを焼く悲哀、若しくは、粛然、所謂襟を正さしめ、完璧のお小説、朗々音読すれば、これすなわち、スクリンの説明か、はずかしくって、書けるかっていうんだ。どだいそんな、傑作意識が、ケチくさいというんだ。小説を読んで襟を正すなんて、狂人の所作である。そんなら、いっそ、羽織袴でせにゃなるまい。
有名すぎる作品なので、出典は書かない。

*1:もちろんこれには限度があり、文章を書くこと自体に慣れていないひとが「思ったことを素直に」書いたテクストは、さすがに読むに耐えない。