『ハイスクール1968』[amazon]読了。この本で描かれる映画や漫画やロックンロールへの熱狂は、われわれにとっても近しい。しかし若手の国語教師が配ったプリントがきっかけで現代詩に目醒め、小林秀雄訳のランボーの詩集をつねに持ち歩き、田村隆一の朗読会に感激し、みずからも同人誌で詩作を試みるすがたは、とても古い時代の光景に映る。「詩」というジャンルの影響力が決定的に低下したのが、当時と現代の最大の違いだろう。オレ自身、詩とはほとんど無縁の生活を送っている。もちろん思潮社の「現代詩文庫」に収められているような詩人の名は知識として知ってはいるものの、実際に読んだことはないし、読んだとしても「やっぱ、小説や批評のほうが面白いよな」という感想しか抱くことができなかった(しかし俳句だけはなぜか例外的に好きだった。それは柄谷行人もいうように、短歌が詩的なのに較べて、俳句が小説的だからではないかと思っている)。

そして「詩」が凋落したあとでわれわれが目にするのは、Jポップの凡庸きわまりない「詞」がはびこる世界なのであった。……という締めくくりはいかにも頭の悪い社会学者(特定の誰かを念頭に置いているわけではない)が書きそうなことで、上のセンテンスはなかったことにしてほしい。

しかし四方田犬彦とオレの年齢差は、オレと現役の高校生の年齢差にほぼ等しいわけで、いまの若者は『ハイスクール1968』を「第二次大戦秘話」みたいなものとして読んでしまうのではなかろうか。