萌え文化資本

あらゆる文化資本がそうであるように「萌え文化資本」も、「いつの間にか何となく身に付いていた」ものであり、かつ一定の条件さえ揃っていれば、かならず身に付くものではない。かといって「『萌え』は結局、判るやつにしか判らない」と言い切ってしまうと、それはただの否定神学になってしまう。昨日の繰り返しになるが、だからこそ部外者にも理解できる語彙で「萌え」について語る作業が必要になるのだろう。あと「オタク的な漫画やアニメの面白さが理解できるひと」と「『萌え文化資本』を身に付けているひと」がイコールではないことにも留意しなければならない。