ツツイ

昨日のことになるが、図書館で小谷野敦の『反=文藝評論』を拾い読みしていたら、「90年代以降、筒井康隆を誉めるのが文壇内で『恥ずかしいこと』になったのはなぜか」について論じている文章が目に付いた。そういえば今年の秋、はてなダイアリーの一部でも同じテーマが話題になったことがあった。

かくいうオレ自身、中学生のときに筒井康隆を読み漁ったのがきっかけで読書が好きになったのに、大学入学(1989年)以降、『批評空間』系の批評家の文章を読む機会が増えるつれて筒井に対する関心が薄れてしまった(より正確に言えば、筒井に関心を持つのがいけないことのように思えてしまった)時期がある。いまとなっては、当時はナイーブだったのね、としか言いようがないのだが。

しかし『批評空間』系の批評家に評価されていた(仲が良かった、といったほうが正確かもしれないが)作家には、筒井康隆の影響を受けた者もいた。少なくとも高橋源一郎島田雅彦は、筒井作品を愛読していた時期があったはずだ。だからこそなぜ「筒井を誉めるのは恥ずかしい」的な抑圧が生まれるに至ったのか、そのプロセスに関心があるのだ。

そして『批評空間』的なものとツツイ的なものを埋めるミッシング・リンク奥泉光ではないかと思うのだが、いい加減な思い付きにすぎないので、もう少し考えを考えをまとめてから再度論じることにする。といいつつ、論じないんだろうけど。