思考と執筆

このところむかしの文学者の評伝をよく読んでいるのだが、口述筆記で原稿を執筆した作家が意外なまでに多い。折口信夫など、ほとんどすべての原稿を弟子に口述させていたそうだ。たとえそれが学術的な論文であっても、折口の文体には耳元で直接囁かれているようなくすぐったさがあるが、あれはふだんの口調そのものなのか。また口述を選んだ理由として、「自分で書くのがもどかしい」を挙げる作家も少なくない。

これには同意するひとが多いと思うが、漢字かな混じりの文章を手書きするのは、かなり手間のかかる作業だ。頭の回転が速いひとであればあるほど、これがじれったくなっても不思議ではない。ビジネスの世界でも、「漢字かな混じりの文章を書くのは、同じ内容の英文を書くのに較べてはるかに時間がかかる。国際競争に勝つためには、書類をカタカナで書くべきだ」という意見があったそうだ。

この意見はワープロが普及することによって下火となる。ワープロやパソコンが日本語にもたらした最大の変化は、若者が漢字を覚えなくなったことでも、文章が容易に編集できるようになったことでもない。思考のスピードと執筆のスピードが一致するようになったことだ。これを仮に言文一致ならぬ、「考筆一致」と呼んでみたい。

以下は勝手な憶測だが、欧米の言語はもとから考筆一致であり(少なくとも日本語に較べれば)、彼らには「字を書くのがじれったい」という悩みはあまり理解されないのではないか。そして考筆一致ではなかったことが、日本文学の日本文学らしさを支えていたのではないか。日本の同時代文学が海外でも人気を呼ぶようになったのはワープロ、パソコンの普及以降であり、それは日本人作家の文体が欧米の人間にも理解されやすい、「考筆一致」的なものに変質したのを意味するように思える。