兼常清佐『音楽と生活』[amazon]

例の「ピアニスト無用論」に関する文章だけをぱらっと拾い読みしたのだが、いやはや、じつに面白い。ちなみに兼常の主張をまとめれば、「ピアノを弾くために必要な技巧は純粋に力学的なものであり、それは数値に還元できる。もしその数値どおりにピアノを演奏する機械が出現したら、その機械だって感動を与えるだろう。ピアニストの『美しいタッチ』をありがたがるのは、曖昧なものを尊いとする神秘主義、個人を崇め奉る英雄主義にすぎない。だいたい他人が作った作品を再現するしか能のない存在なんて、芸術家でも何でもない。ショパンを弾くヒマがあったら、てめぇがショパンになってみろ」となる。柴田南雄がこのひとを高く評価していたのも理解できる。シーケンサーやコンピュータによる「演奏」に誰もが素直に感動するようになったいま、兼常の主張は説得力を持つ。このひとが音楽学の世界で正当に評価されていないとしたら、それはどう考えてもおかしい。とりあえずはマスダ氏あたりに(勝手に指名)、兼常再評価の急先鋒になっていただきたい。


 機械文明は音楽をだんだん機械化して来た。蓄音器やトーキーはその場限りの名人の演奏を長く保存した。ラジオはその場限りの名人の演奏を広く普及した。いっそのこと、機械力はその名人の存在を打ち亡ぼしてしまう処まで行けないものであろうか。
ちなみに兼常清佐は、ベンヤミンよりも7歳年長である。