文学と障害

1944年に生まれた太宰治の長男はダウン症を患っていた。しかし太宰作品には「障害を持つ息子」をテーマにしたものはほとんどない。「桜桃」などで部分的に言及されているだけだ。これは「障害を持つ息子」を生涯のテーマとしつづけている大江健三郎とは対照的と言える。

しかしこれは太宰と大江の作家的な資質の違いというよりは、時代背景の違いであろう。太宰のころは子供はたくさん作るのが当たり前だった。そのため、障害を持っている子供がひとりぐらいいたとしても、「それはそれ」で普通に可愛がっていたのではなかろうか。それに対して大江健三郎が父親になったころは、日本は少産少死型の社会になっていた。だからこそ、大江はわが子の障害に対して、過剰なまでの情緒的な反応を示したのであろう。

要はある時代においては「文学的」なテーマとなりえることが、別の時代でも同じく「文学的」テーマとなりうるわけではない、ということを言いたかったのであるが。

そして少年犯罪の問題にまで話を広げようと思ったのだが、これは異論反論がコメント欄に押し寄せそうなので自粛する。