Jポップ批評

YahooやGoogleで「フリッパーズ・ギターと『渋谷系の時代』」と検索してこの日記にたどり着くひとの多さに驚き、妙な義務感にかれられてしまったので、この前の日記よりは具体的な感想を書くことにする。

「クールな状況論」系の文章では安田昌弘「地図にない渋谷」が面白かった。「渋谷=音楽の街」という図式は「渋谷系」という言葉が定着してからあとに生まれたものであることを、豊富なデータで実証した好論考。この手の論考はえてして「愛が足りない」の一言で「ファン」から切り捨てられてしまいがちだが、それはそれでもったいない話ではなかろうか。

太田浩の本社栄転とPOSシステムの普及にともないHMV渋谷店から独自色が失せていったという指摘は、当時を知る者としても納得できる。というか、カルスタ的な視点からこの国の文化産業について論じるのなら、POSシステムが何をもたらしたかについて、しっかり押さえておく必要があるのではないか。一方的にその「弊害」を断罪するのではない、もっと現実的な視点からね。

それから末尾近くの

……しかしだからといって、「渋谷系」という呼び名を音楽産業群によるでっち上げ・搾取として誹謗し、今は亡き「(本物の)渋谷」を悲嘆するだけでは、最初からいた私/後から来たあなたを弁別する実存的欲求は充たされこそすれ、渋谷系という現象の大局を理解したことにはなるまい。
という一節は、あらゆるムーブメントにいつもワンテンポ遅れた時期に興味を持ってしまい、そのことで不要なルサンチマンやコンプレックスを抱きがちなオレにとって、何だか勇気づけられる言葉であった。

いやはやまったく実際問題、目端の利く(と自分では思っている)サブカル系/オタク系ライターの書く文章には、自分がいかに「最初からいた」者であるかを無駄に強調するものが多くて、そういうものを読むたびに(以下略)