フィクション

気合いを入れて書いているわりには不本意な出来栄えに終わることが多いので、サイトではほとんどインフォメーションしていないのだが、『ミステリーBst』という雑誌で「ミステリ in パズル」という推理小説仕立ての読者懸賞パズルを連載している。といってもパズル部分は本職のひとが考えているので、オレが担当しているのは本文だけなのだが。本日、連載第4回を脱稿。これまでよりはスマートにまとまったのではないかと満足している(だから日記でインフォメーションしたのだ)。

いまのところ趣味でも仕事でも、本格的な小説を書くつもりはまったくないのだが、フィクショナルな文章を書くことにはやはり独特の面白さがある。それはつまり、何かに「貢献」する必要がないからなのだな、と思う。フィクション以外の文章では、書き手はつねにある特定の知の分野に貢献することを求められる。たとえその「知」が、トンデモと呼ばれるたぐいのものであっても、だ。「貢献」が大げさなら、「ためにする」といってもいい。

しかしフィクションを書くことは、まさしく「ためにならない」。フィクションにおいては、書き手は特定の知の分野を称揚したり弁護したり喧伝する必要はない。むしろ特定の分野に依存せず、さまざまな分野から聞きかじりの知識を雑駁に寄せ集めたほうが、作品としての価値や完成度は高まる(政治的・宗教的なプロパガンダを目的としたフィクションは、だいたい「価値が低い」)。この「テキトーさ」や「デタラメさ」こそフィクションの要諦なのだ。国際社会だか何だか知らないが、「貢献」が無条件に美徳と称えられる社会とは、すなわちテキトーでデタラメなものの存在が許されない社会であろう。そのような社会に住みたいなんて、あんまり思わないよね。

あ、高橋源一郎みたいな結論になってしまった。