本日の献本

ケータイ小説がウケる理由 (マイコミ新書)

ケータイ小説がウケる理由 (マイコミ新書)

毎日コミュニケーションズのTさんよりいただく。ありがとうございます。
ざっと目を通しただけだが文芸批評や文学理論のタームはまったく使わず、あくまでもビジネス的な側面からケータイ小説について分析している。昨日の『文学的商品学』が「文学のなかの商品」を論じているとするなら、この本は「商品としての文学」となる。「あんなものは文学ではない」と思うひと(オレもそのひとりだが)も、こういう本を読めば偏見が薄れるのではないか。
これは自戒を込めるのだが、「いい本を作れば自然と売れるはずだ」という思い込みは、そろそろ捨てたほうがいい。出版だって公共事業ではなく商売なのだから、もっとマーケティング的な視点から分析する批評家が増えてもいいのではないか(大塚英志はわりとこのようなスタンスらしいが、オレは彼の著作を読んだことがない。あとは蓮實重彦が純文学作家の新刊書を「ページあたりの単価」を計算しながら論じていたのには笑ってしまった)。

ケータイ小説こそ小説の王道?

ケータイ小説がウケる理由』、一気に読了。いわゆる「ケータイ小説」をまったく読んだことがなく、携帯電話を使ったビジネスを展開するつもりのないオレでも、面白く読めた。
なお著者は作者が読者に向けて一方的に作品を送り届けるのではなく、作者が読者の感想をリアルタイムでフィードバックさせながら作品を作り出していくのが、従来の文学にはないケータイ小説の新しさだとしている。しかし作者が一方的に作品を送り届けるのは、20世紀の先進国にかぎられた特殊な現象だと思わなくもない。例のクロワッセの隠者を除けば、19世紀のヨーロッパの小説家の多くはじっくり推敲する余裕もないまま、新聞に小説を連載しまくることで生計を立てていた。物語を盛り上げるためなら矛盾が生じても気に留めず、読者の人気が高い登場人物は殺すに殺せなかった。毎日更新されること、読者の感想を考慮に入れながら物語を作り上げていったこと、こうした点に注目すればケータイ小説は「新しい」ものではなく、むしろ小説のあるべきすがたへと先祖帰りしたのではないかと思えてくる。そうだ、20世紀の小説が特殊すぎたのだ。ケータイ小説こそが小説の本来のありようなのではないか。