多層化された情報

小説は衆人環境でも読めるが、漫画はどうにも落ち着かない。これは何も「人前で漫画を読むのは恥ずかしい」という古典的な理由のみによるものではない。絵が発する情報とネームが発する情報を同時に処理しなければならない漫画は、小説よりもレイヤーが複層化されており、読むのに集中力が必要になるのだ。

「こんな下品なものを穿いてしまったらどうしよう」

恋をしましょう (バンブー・コミックス 麗人セレクション)

恋をしましょう (バンブー・コミックス 麗人セレクション)

ホワイトカラー・ボーイズラブという特殊なジャンル(何しろオレしかこんな用語を使うやつがいないくらい特殊である)で確固たる地位を築いている西田東の最新作。いずれの話も組織に忠実な「犬」と一匹狼のあいだに芽生える感情のドラマを描いている。収穫だったのは、西田東に意外と笑いのセンスがあるのが確認できたこと。いずれ本格的なギャグ作品を描いてほしいものである。

最終解決などない

内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(ISBN:4166605194)読了。終章「終わらない反ユダヤ主義」の説明が判ったような判らないような……。どうにも考えがまとまらないので、気になったセンテンスをいくつか抜き書きする。

 ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤ人において標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と読んでいるのである。(182ページ、強調原著者)

 そのつどすでに遅れているもの。
 この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(というより端的に知性にそのものの)起源としてあるものなのだ。(213ページ)

 実際に罪を犯していないがゆえに、有責性を覚自するのではなく、有責性を基礎づけるために、「犯していない罪」について罪状を告白すること。これが「私は自分が犯していない罪について有責である」という言葉にレヴィナスが託した意味である。(224ページ)

気が向いたら書き足すつもり。