ふたつのナショナリズム

かつての「高度成長型ナショナリズム」と現在の「個別不安型ナショナリズム」は同じナショナリズムといっても別物であり、ここをきちんと腑分けしなければ日本、韓国、中国で同時多発的に沸き起っている「ナショナリズム」のすがたを見極められないとする内容。いきなり面白い。ちゃんとした感想は読み終えてから書く。

 この著者(『マンガ嫌韓流』の山野車輪)は、「玉突きモデル」しか念頭にないため、「親日派清算」というのが、対日観より先に国内問題であることを理解できていないのである。これは知識の多寡の問題ではなく、相手の国内にも政治的な対立構造があり、しかもそれは不断に動き続けているのであるという、当然の想像力を持っているかどうかの問題である。だからこうした議論に対し、微細な歴史問題をあげつらって反論し、それにまた再反論が行われるような種類のやり取りは、総体としてあまり意味がないと私は思う。(序章より)

羨む

2006年4月4日付け日本経済新聞朝刊の宮沢喜一私の履歴書」から引用する。

 小学校の終わりごろからあちこちの能楽堂に足を運ぶようになった。映画も好きで、武蔵時代には当時封切られたフランス映画はほとんど見ている。私は身長が低いので、立ち見でも困らないようにいつも朴歯のげたを履いていた。

昭和のはじめに青春時代をすごしたインテリの回想録を読んで「勝てねぇな」と思うのは、こうした記述に出会ったときだ。当時発売されていたクラシックのSPはほとんど聴いていた、当時の推理小説の新刊はだいたい読んでいた、云々。多品種少量生産がますます加速し、特定のジャンルの作品をすべて網羅するのが不可能になった時代を生きるオレたちには、決して得られない知的全能感を味わっていたのだろうな、彼らは。過去を羨んでいても生産的ではないのは、判ってはいるのだが。