炭水化物の魔

恵比寿というか広尾というか、まあ、そういったところ(あの辺の地理はいまだによく判らない)で打ち合わせ。世の狭さをまたもや知る。帰りにカフェで食事。最近、ほとんど家から外に出ていないので、胸板は薄いのに腹だけがぽこりと膨れ上がっているというみっともない体型になっており、ダイエットを真剣に考えているのだが、テーブルに並んだものは炭水化物の多いものばかり。嗚呼。
あ、念のために付言しておきますが、店の雰囲気も料理も酒も女性店長の容貌も、予想をはるかに上回るものでありました。

ネットリテラシー

波状言論S改』読了。第2章「リベラリズム動物化のあいだで」における「ネットリテラシー」という言葉の使いかたが、どうにも気になった。
ひとくちに「ネットリテラシー」といっても、「読み手としてのリテラシー」と、「書き手としてのリテラシー」は異なる*1。たとえばこの鼎談では「(ブログが普及した現在の)日本って一般に思われてるより、ネット社会のリテラシーが成熟していなかったのかな」(東浩紀)と言ったり、「(2ちゃんねるを読むには)まさに文字どおりのリテラシーが必要とされている(笑)」(鈴木謙介)と言ったりしている。これだけでは判りにくいかもしれないが、前者は「書き手としてのリテラシー」、後者は「読み手としてのリテラシー」を指している。
別に『波状言論S改』にかぎったことではない。ネットでも活字媒体でも、「ネットリテラシー」について語るひとは、このふたつをごちゃ混ぜにして話を進めている印象がある。おまけに前者の「ネットリテラシー」は「文章を正しく解釈する能力」ではなく、「文章の(ひょっとしたら存在しないかもしれない)『ウラ』を読み取る能力」として使われることが多いのが、事態をややこしくしている。はたまた後者の「ネットリテラシー」は煎じ詰めれば「よい文章の書きかた」にすぎず、ネット特有の特別な何かではないわけで。

*1:これが「ネットリテラシー」と「メディアリテラシー」との大きな違いだ。メディアの場合は、一般のユーザーが情報の送り手になることはないからだ。