ノンフィクションの読まれかた

沢木耕太郎『一号線を北上せよ』(ISBN:4062109239)読了。
ノンフィクションやルポルタージュ、あるいは実用書は「誰が書いたか」ではなく、「何が書かれているか」を基準にして読まれる。たとえばボクシングが好きで、ひたすらボクシングに関する本ばかり読んでいるひとが、沢木耕太郎の『一瞬の夏』に感心したからといって、『テロルの決算』や『檀』にまで手を伸ばすとは、ちょっと考えられない。いや、彼ぐらい作家性の強い書き手であれば、それこそ『一号線を北上せよ』のように、文体も分量も舞台も執筆時期もまちまちな文章が一冊の本としてまとめられる機会はある。しかしそのような書き手はごく一部。多くの書き手の著作は相も変わらず「○○さんの本だから」ではなく、「××を扱っている本だから」という理由で消費される。ノンフィクションやルポルタージュでそれなりの名声を得た書き手が小説を書き始めるのは、自分の文章が「書き手」本位ではなく「テーマ」本位で読まれる空しさに耐えられないからではないだろうか。しかしながら小説(というか文学)がかつてほどの影響を失い、より「実」のあるものを多くの読者が求めているのも事実だ。
そして言うまでもないが、これはメタブログ論である。