北日本・裏日本・アメリカの田舎

昨日の宴席で話題になり、ちょっと気になったことをメモ。「『悪』であるかどうかも定かではない、正体不明の何かによって日常生活が脅やかされる」タイプの物語(いわゆる「セカイ系」)は、地方都市が舞台であることが多い。またどちらかというと、北日本・裏日本の都市が選ばれやすい傾向にある(『凹村戦争』(ISBN:4152085568)の「凹村」も、明示されているわけではないが「北日本・裏日本」のムードが漂っている)。これはなぜか。いくら何でも「北国の人間は共産圏に対する恐怖を日常的に経験してきたからだ」では単純すぎるだろう。そもそもオレは新潟の出身だが、中学校の屋上から日本海を見て、「ああ、この向こうには中国や朝鮮半島ソ連があるんだなあ」と心楽しく想像したことはあるが、「脅威」と感じたことはない。それともオレが鈍感すぎただけなのだろうか。

そして上の考えを演繹させると、「アメリカの地方都市に住んでいるひとたちは、テロリストに対する『セカイ系』的な恐怖に支配されており、だからこそ共和党に票を投じたのではないか」と妄想したくなるのだが、アメリカの実情については二次的・三次的な情報しか持ち合わせていないので、断言は避ける。

Mandaraqué

20:00から新宿で呑む。初対面のひともいたというのに、下品な下ネタ(上品な下ネタとは、しかし何か)を披露してしまう。ああ、昨日と同じだ。終電前に帰るのが惜しい気分になり、2:30ごろまで荻窪で呑み直し、タクシーで帰宅。ああ、これまた昨日と同じだ。

しかし日本をはじめて訪れたフランス人が「まず最初に行きたいところは?」と訊かれて「Mandaraqué」と答え、「子供が生まれたら、どんな名前を付けたいか」と訊かれて「Yodobachi」と答えたという逸話には笑った。