SFファンはテロリスト
昨日のSkypeでの長時間の会話から、気になった発言、印象に残った発言を書き留める。「A」が相手で、「Y」がオレである。
- 文化本質主義そのものが間違っているのではなく、文化本質主義の機能のしかたが間違っていた(「この芸術の素晴らしさ」が判らない人間を抑圧し、排除するように機能してきた)わけで、この点に自覚的であれば、文化本質主義的な言説を口にしてもかまわないのではないか。(A)
- フランスではナガサキはヒロシマに較べると知名度が低い。これにはいろいろと複雑な事情があるようだ。(A)
- フランスはとにかく「制度」が強固な国。どんなに美しくておいしいフランス料理を作るシェフがいたとしても、彼が「フランス料理」という制度に属していなければ、それは「フランス料理」とは見做されない(ゆえに日本には「フランス料理」はない)。反対に制度に属しているシェフであれば、鮨を握ろうが、チーズバーガーを作ろうが(実際にはありえないだろうけど)、それは「フランス料理」として評価される。(A)
- Yが「日本SF大賞は形式上は文学賞なのに、アニメや漫画が受賞することがあり、それをファンも当然のこととして受け止めている」と言ったら、Aが驚愕した。YはAが驚愕したことに驚愕した。ジャン・ポーランは「詩には詩、小説には小説、戯曲には戯曲の固有の特性があり、それらを無視して同じ方法論、同じ価値観ですべてを論じるのは『テロリスト』のやることだ」と批判している(正確な引用ではない)。この発言に強い共感を覚えるAにとって、日本SF大賞のやっていることは「テロ」だとしか思えないらしい。Yはこの問題はもう少し深めて行きたいと考えている。
- 自分はブログで文章を書くときは、フランス語でいうところの「on」(「ふつうはそんなことしないでしょ?」の「ふつうは」に相当するような、奇妙な代名詞。「英語の"people"に相当する」と説明されることが多い)に向かって書いている感じがする。「on」が相手だからこそ気楽でもあり、かつ迂闊なことが書けない。(Y)
- 『ユリイカ』はもっと反動的になったほうがいい。(A,Y)。ノーベル文学賞が発表されたら、日本には受賞作家の専門家が2人くらいしかいなくても、その作家の特集を組む、『ユリイカ』が果たすべきなのはそうした役割だ。(A)
- 彼岸には「圧倒的な天才」がいることを知りつつ、あたかも自分自身も彼岸にいるようには振る舞わず、あえて此岸に留まりながらザハヒリカイトに演奏や作品を分析する。自分が信頼できるクラシック関係の音楽評論家はこのような人物で、自分にとっては柴田南雄ただひとりしかいない。(Y)
文化本質主義者宣言
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ともあれ大貫妙子の声とメロディーには絶対的な「美」があり、「美」に対してわれわれができるのはひたすら陶酔することだけだ、と文化本質主義的なことを書いてみよう。