センス

練馬駅前で編集のTさんと待ち合わせ、『[はてな]ではじめるブログ生活』の見本をいただく。

この日記のテキトーなCSSや、この日記のテキトーな小見出しをご覧いただければ判るように、オレにはデザインセンスやネーミングセンスが根本的に欠落しており、自分の著作のタイトルや装丁は担当編集のひとに「おまかせ」にしている。そのわりには(あるいはそれだからこそ?)、「これはちょっとなあ」というタイトルが付けられたことや、「これはどうかなあ」というデザインが提示された経験はまったくない。今回もいかにも「はてな」らしい、柔らかな雰囲気に仕上がっていて、非常に満足する。

あとは売れるかどうかが問題になるわけだが、まったく同じテーマを扱った、ちょっとずつ編集方針の異なる書籍が複数の出版社から立て続けに刊行されるのは、正のフィードバックを生むのではないだろうか。これからは「競合書」ではなく、「共存書」と呼んでいきたい。

ブンガク

見本をいただいたあとは、Tさんと軽く呑む。話題は著作権とか綿矢りさとか。

  • 作者と主人公は別人格である(いや、同じだったら同じでも、誰も困らないんだけど)
  • 文章はあくまでも「文字」であり、視覚的なイメージを喚起するものではない(いや、喚起しても何も悪いことはないんだけど)
  • 「テーマ」や「メッセージ」を求める必要はないし、それらがあるとはかぎらない(いや、あればあったに越したことはないのかもしれないけど)

といった文学観・小説観は、ある時代にある種の言説に親しんできたひとにとっては馴染みやすいものだが、「公理」として多くのひとに共有されているわけではないのだな、と実感する。オレはこうした相対主義的な姿勢は、テクストを批評的に読み込むには必要だと思っているのだが、それを呪縛と感じる高橋くんの気持ちも理解できなくもないのであった。

ミカド

あるゲームのタイトルをめぐり、「言葉の使いかたとして、ちょっとおかしいのではないか」と指摘したひとを擁護する文章を書いていたのだが、事態が収束に向かいつつあるようなので、そのままアップロードするのはやめる。

でもさ、「『一太郎』はWindows用のアプリケーション一般を示す普通名詞であり、Photoshopのインストールを『一太郎をインストールする』と形容しても誤用にはならず、Excelの入門書に『わかる! 一太郎』というタイトルを付けてもかまわない」とパラフレーズしたら(このパラフレーズも、かなりいい加減だけど)、大抵のひとは「それはおかしい」と思うよね。

まあ、そんなことを言ったら、「もともとはテンノーヘーカの尊称だったのに、フランスのガキの遊びの名前になり、しまいにゃピコピコ・バンドの名前にもなった『ミカド』の立場はどうなる」という再反論も成立するのかもしれないが、ここまで来るとさすがに不毛すぎるし、背景となる事情が違いすぎる。

しかし右翼のひとは「ミカド」がガキの遊びの名前になっていることに、なぜ本気で憤ったりしないのか。